にっきのないよう

私の音楽感性に影響を与えているのはバッハだった?

 過去の作曲群を聴きなおすと、まぁなんともごちゃごちゃで耳が疲れる音だなあと思っていました。
音のアイデアをてんこ盛りにするからだ、と最初は考えていたのだけれど、最近、対位法なる言葉を知りまして。
 この対位法、コードがあってメロディで構成される曲とは違って、メロディに別のメロディみたいなのが絡み合って、いっぺんに聴くとコードみたいになっている感じで(多分、全然違うと思う)。
 で、過去に作っていた曲の話に戻るのだけれど、

「どうやら私は対位法みたいなのをやろうとしている? 」

 そう感じたのだ。
 で、対位法を意識して聞いてみると、やっぱそれをしようとしている。
 ここで私は疑問に思った。

「どこでこんなことを覚えたの」

 私は自分の好きな曲を片っ端から聴き漁り、私の感性がどこからくるかを探した。アニメからゲーム、映画音楽、ロックにトランス。色々探したけど、それっぽい欠片はあるけど、これらはベースラインが好きっぽくて、源泉ではない感じ。
 それに好きなものを聴くとは、意識的にするもので、それは刷り込みとは違う。もっと、私が幼い頃に聴いていた曲でなければならない。
 私はさらに過去の記憶をたどり、G線上のアリア、まで探りあてた。
 この曲はバイオリン演奏とピアノ演奏の二種類のバージョンがあって、私は両方とも好きだ。音も何となく対位法的な感じがする。ということは、やはり対位法を基礎とするクラシック音楽が私の感性に影響を与えた可能性がある。
 クラシックから作曲のアイデアを得ようと考えてはいたものの、黙って聴くには少し退屈で、積みゲーのように溜まりまくった再生リストを開いた。なんだかピアノ曲が多かったけど、クラシックのサビメドレーみたいなのがあったので再生してみる。

 モーツァルト……これは、なんか音が遊びすぎてて違う。
 ベートベン……なんか壮大すぎて耳が痛い。
 ショパン、ドビュッシー……これはピアノだ。
 サンサース……動物の謝肉祭か。懐かしい。

 違う。どれもこれも、私の欲している対位法ではない。残るはバッハとかいう古典的な、いかにもクラシック〜みたいな作曲をした人の曲。
 聴いてみる。

「あれ? これなんじゃあないか。しかも、G線上のアリアって、この人だったのか」
 
 驚きである。私は名前とあの堅物っぽいビジュアルからバッハを無意識に遠ざけていた。それなのに、彼の音には私の求めている曲の構造がしっかり現れている。
 高中低ある音域のどれを聴いても楽しめるし、音に集中すると曲全体の印象が変わってくる。対位法の極まった音だ。
 この経験により、私の中でのバッハという存在が格上げされた。だからといって、これから頻繁に聴くわけではない。やっぱ、耳が疲れるから。でも、行き詰まった時には、バッハ先生の音に耳を傾け、背中を押してもらうだろう。
 でも、バッハかぁ。バッハなんだよなぁ。

 対位法の参考になる曲を見つけた私は、改めて自作曲の作り直しをした。
 メインはピアノで、背景にストリングスを流し、管楽器をアクセントに加える。私は管楽器の扱いに困っていたのだが、対位法であれば管楽器が自由に動いてくれる。もちろんストリングスも。
 んで、ある一箇所で楽器全体がユニゾンしつつハーモニーすると、何ともクラシックっぽい。そう、クラシックっぽいのだ。クラシックではない。
 クラシックっていうのは、よくわからんルールが絡まってて(下の音が上がると上の音は下げるんだってさ)、音楽理論がどうのこうのらしい。私はカラオケで点数つけて歌うのが大嫌いなので、六法全書のようなクラシックルールなど覚えることも守ることもできそうもない。私の細胞が心地よいと感じてくれれば良いのだ。
 まぁ、そうやって私の感性赴くままに曲を作り、いつか最高傑作ができて、その理由が音楽理論だとかクラシックのルールを正しく守ったからだった、なんてことがあるかもしれない。ものすごーく遠回りをして、納得のいくものを作る。時間の無駄だ。
 だとしても、絵も小説もそうだけれど、情報の入力からだと成長できない。試行錯誤して出力することでしか良いものを創作できない。エネルギーを無駄に消費しながら完成を目指す、燃費の悪い脳構造しているのだ。
 私が私である所以である。